昭和五十六年十月二十二日 朝の御理解
御理解六十八節
「神参をするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬその辛抱こそ身に徳を受ける修行ぢゃ 如何に難有さうに心*や大
*を上げても心に真がなければ神に虚言を云ふも同然ぢや拍手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ小さい音でも神には聞こえる拝むにも大*をしたり節をつけたりせぬでも人にものを言ふ通りに拝め」
その辛抱こそ身に徳を受ける修業じゃ とこう言われる。勿論信心が芯でなからなきゃあなりません。ただ辛抱すると言うて、ただ辛抱力を作るというだけではその辛抱力がかえって邪魔をするようなね 年をとるに従って何というですかね 有り難い云うなら辛抱でなからなきゃならないという事です。そして思わせて頂きます事はね そのさまざまな事柄で雨が降るから、風が吹くからと まあ人生の雨嵐というてもいいでしょう。そういうようなさまざまな修業がございますが、それを信心で辛抱しぬかせて頂いてはじめて 徳になるんだという事ね。私共夫婦がまだ修業中の今から考えてみてようそんな無茶な事を神様にお約束したもんだと思うけれども、それがやっぱり出けてきた。布一寸買いません。下駄一足買いません。下駄一足 下駄やら買わちゅうことは あんまり外に出て歩かなきゃよかし 裸足にもなれる。布一寸買わんというても まあ色々持っておる物で辛抱していきゃええからというけれども、まあようそういうような事を 神様にまあ苦るしまぎれであったでしょうけれども お誓えして実行しておる今日、それこそ まあこれが最高の布であるだろう、履物と云うならば その衣類には、私共夫婦は不自由致しません。もうしかも限りなく しかもこれが最高の物であろうかと云うような物が こう集まって来ます。してみるとその修行させて頂いたと云うその事が やっぱおかげに*るようですね。
お徳を受けたと云うても やはりお徳の中にも神徳 人徳 金徳 物の徳 健康の徳というふうに云われますがね。
昨日 一昨日、一昨日でしたでしょうか 御本部で御用頂いております 淵上先生の所がおかげで又 息子が生まれました。又ち云うちゃいけんけれどもね。そしたら或る先生が はあこれで五人目ですね、と云うた 途端に頂いたのが その五徳と頂いたんです。五つの徳、五徳(いつのり)と読む。ねその まあその第一号が昨日の日ばれ、日ばれと云うですが あのう 三十日経ったので 安武先生所の息子さんが、初参りのおかげを頂いた。お礼参拝して来ましたがねやっぱ だからお徳と云うても御神徳と云うてもそれにはそれぞれの特徴のようなものがあるようです。
これはもう昔でしたが 九州でまあいよいよ徳を受けられた先生方をずっと頂いて、桂松平先生の御神徳というのは 例えば このお腹が大きい 云うならばこのお腹をたたいて 「*云う事に間違いがあるか」と云ったような まあ腹の大さでありおかげであったと。久留米の初代なんかは ちょうどその時分に玉錦という大変見事 横綱が居りましたよね。それこそ玉のような顔をして お腹もこう太鼓腹ね、心も美しいが 云うならそういう意味での腹の大きさであった。お徳であったと。甘木の初代安武先生の場合にゃ もう腹が太いけれども もうあのう妊産婦の腹の大きい模様を頂いたんですけれど だから見苦しい。ちょっとあんまり格好がよくない。まあそういう意味あいで まあいろいろまあ分からないものたちが取り沙汰をしたり 悪口を云ったりいたしましたですよね。いわゆる 生みだすという事においては日本一と云われる程しの沢山なお弟子さんを生み出されたわけですね。で当時 私の事を神様が*して あのう大黒様のあのうお腹の大きい所を頂いたんです。どう言うことだと思うですか。これは私をそういう徳を受けたい 今日は私御神前でね 大黒様がこうやっておたびらかいてですね、あぐらをかいて その前に大きな千両箱の倍位あるごたる箱ばこう半分ばかり開けておられる所を頂いた。中にはもうそれこそ もう大判小判がいっぱい入っとるといったような大黒様がその前に座っておられるという御神願を頂いた。
まあ私が一番修行さして頂いたというのは 下駄一足買いません布一寸買いませんというたのも お金がなかったから。ねだからもうお金でこん限りの修行させて頂いたから 私はお金には不自由しのいという事になる。これを ほんなら皆さんの上にでも討ち出のこずちのようにね皆さんが要ると云や 要るというだけなら打ち出してやれれるようなおかげを頂きたい。それで問題はね 各々がそういうおかげを だから合楽ではもう金銭のおかげが一番受けられるという事になるです。もう合楽で貧乏どんする人はもう絶対ないという程しにおかげが頂かなけりゃあならんはずなんです。そんなら 誰も彼も私も私もというもんにこうやって打ちでのこずちを でもって打ち出してやるというわけにはいかん、ル-ルがあるんです。ね例えば雨であろうが 風であろうがこの辛抱こそ身に徳を受ける修行として有り難く受けとれる心の状態が開けた時に合楽の場合はいわば それこそどれだけのお金でも打出して下さる程しのねいつまでこげな辛抱せんならんのだろうか いつまでこげな金に難儀をしなけりゃあならんだろうかといったような事では いくら合楽だって駄目だという事が分かる。ね必要も物が必要に応じてと、私は今まで云ふてきたけれども、今日私は感ずる事は これは一つ合楽では金の徳にもの云わせる、いわば金でもの云わせるという人がありますね。もう一事が万事金の時代世だと、この頃テレビで一番人間の大切なものは何かち云うたらお金ち云うたのが、一番多かったですね。たしかに大切なものなんです。ねだから いるときいる物が集まってくるというだけではなくて、やはりそれがね、億万の富とも 富となって それにいうなら金の徳が伴うた徳である。そしていよいよ動かん所でも 金の力で動かせれるような働きを頂きたい そういうお徳を受けたいなと、今日私は御神願頂いて思うた事でございました。今までは必要な事が必要に応じてという事でございましたけれどもね まあそれで大変有り難い事なんですけどね 金にもの云わせる、いわゆる私は金に徳が伴うたこれは合楽だけ 合楽の独断場と思われるような 大黒様的な徳をいよいよ偉大なものにしていって 合楽の信奉者の全部の方たちにもう合楽の信奉者に貧乏人はないと 金で不自由する人達はない そういうおかげを頂く手立てを合楽理念に求めてです。成る程こげな心の状態じゃ頂けんはずだと 云う所を分からしてもろうて 云うなら雨が降るから 風が吹くからという中にあるその修行 ただ歯を喰い縛って辛抱するといったり 難儀を感じたりするのじゃあなくて、そこに何んち云うかね、私がいつも申します借金のことわりにそりこそもう本当にそりこそ銀行に金預けに行くごたる 意気揚々としてことわりに行ったようにね そういう心の状態が開けてくる 辛抱が合楽理念に説いてあるんです。二三日前に若先生が今度ここの来年が十五年祭でしょう。ですからその事業を思い立ちたいと皆さんが云っておる、どういう事業をち云うから、そりゃああんた あのう信徒会館建設くさいと私は申し真下。成る程信徒会館はあのように身事にでけました。けれども、まあ沢山の借金を持っております。その借金も今云うように必要なら必要なだけ 五年なら五年の間にこうやって何百万、一千万ずつが近く払わせてもらって居ります。ねそれが本当にどこから借らんならんという事もなく まあおかげを頂いておるという事ですけれども、おかげを頂いて六億からのがもう一億五千万位に減ってます。さすがに合楽だなあと思います。だからそれが一五年祭には見事に建ち上がったじゃなくて、建ち上がった時には支払いもすんでしもうておったという これに取り組む事が一番先決じゃなからうかね というてまあ若先生に話した事でございますよ。最近はもう御造営という事に皆さんがあんまり関心 もう何もかもでけてすんどるような考え方をしておるような所がないでしょうか。まだ云うならばただ六億から一億五千万になったというとほうと云うごたるけれども、ただ初めからまだ一億五千万残っとるといや やっぱ今のいくら値打ちのない金でも大金なんです。ねそれが成る程今の調子でおかげを頂いていけばでけるんでしょう。でけるけれども値 それが皆の最近云われる所の御用なんです。ね皆さん合楽の信奉者の一人一人の責任においての御用が 金銭の上にもでけれるようになる。それを神様は御用と受けて下さる所にです いわば今日の私 皆さんに申します 云うならば金の徳というものも身についてくるでしょうし 又金に難儀をしておるその難儀が今こそ雨の中にある 風の中にあるんだとしてね いわゆる身に徳を受ける修行を 例えばさせて頂いとる、私はその時に感じた、これは神様が私を末は横綱か大関かと云うように 云うならばね 目をつけておられるからこの修行だと思うたから 元気がでた。有難うなってきたようにね。その事に対してお礼が云えれるような生き生きとした信心がでけなきゃあならないねと 同時に今最近合楽で云われる責任においての御用である。ね私はそういう所に本気でね その気になる所から又神様も本気になって云うならば思いもかけないおかげと云うような事にもなってくるのじゃあないでしょうか。合楽で云われる 云うならば私が大黒、これはそこそこの云うなら特徴がある。お徳の中にもいうならばね 神徳 人徳金やら物の徳に健康の徳というようにこうあります合楽の場合はやはり何人というても金の徳が芯だという事。何故 私がそれで一番修行しとるから ねだからその金の徳にも触れたいと思うならば ならそういうおかげの受けられるどんなにお金を追いつけてもお金だけはぎすとん(ぱったりとの意)頂かれんというのではなくて 合楽の場合はこりゃあ絶対頂けれるんだという だから結局受け物を本気で作る事だという事をね 責任にいての御用 又は修行の中にあってね生き生きとした喜びの頂けるような信心の手立て合楽理念に基づいてね それこそ昨日も申しましたように合楽理念 合楽理念でおかげを頂いとるようにありますけれども いよいよどっこいここで力を受けるんだという時にそれをしだ*だにしておるという事なんですね いよいよここで一徳受けるんだ修行 力を受けるんだという所を 一つ合楽理念で頂いた時にその都度にいうならば力を頂く事でしょう 信心がすすんでいくことでしょう。云うならば大きくなっていくことが出来るでしょう。大きくなると云うてもそこん所が私は大事だと思う。いつ大きくなるかと そういう日々合楽理念による生活さしてもらって そしてそこに試験があるようにどっこいとこう下腹に力を入れんならんような時にです それをさあ右だ左だとしてしまうたら その云うならばその試験に不合格という事になったら又いつまでも堂々まわりで一回り大きくなるという事は出来ないです。そういう所をしっかりふんまえてねおかげを頂きたい。雨が降るから 風が吹くからえらいと思うてはならん。そりゃあ皆人生の上にさまざまなそういう難儀はありますけれどもそれをただ歯をくいしばって辛抱しぬいた若い時にあそうにゃ苦労をしたというて頑固な心が 云うならば頑固爺さんになったり こんにゃく婆さんになったりするような 若い時にあ私どんなそうにあ 苦労したばの辛抱したばのがもうかえって若い者を*めの手立てになるようなね事じゃない 鬼に角 一年一年有難うなっていくというのがです 本当にあん時に力を徳を受けたのじゃろうと思われるような云うならおかげでなからにゃあいけないという事ですね。 どうぞ